2010年7月31日土曜日

脳内音楽フェスティバル

卵が先か、鶏が先か。

松岡正剛の「17歳のための世界と日本の見方」という本を読むとそのなかに、人間の歴史上、言葉が先か物語が先か、という問いが出てくる。

どうやら、脳の中であるつながった情報が先に作られ、それを口に出して伝えるために言葉が生まれたらしい。物語が先なのだ。

同じ事が音楽にもいえないか?

メロディを奏でる、歌うという行為は、先に脳の中で音楽が鳴っているに違いない。
それを外にアウトプットする作業が曲を作る、ということだ。

どうやったら脳の中で自動的に演奏をはじめるだろう。
きっと、それは自分が生まれる前からの記憶も含め、今日までのありとあらゆるメロディが精密に全て記憶されていて、ある現体験によって、本人ですら認知していないような忘れているメロディの記憶を呼び起こすことによって、音楽が鳴るのではないだろうか。

思いもよらない出来事、ひょんなことが記憶の一部分を刺激して、脳のなかで音符がつながり、時には思いもよらないメロディが出てきたり、時には自画自賛のメロディに出会えたりするのだろう。

だから、アドリブとか作曲においては、音楽が先に脳のなかで鳴っていて、それを伝えるために口に出して歌ったり、楽器を用いて演奏したりするのだと思う。

知らないだけで、自分の脳のなかには、一心不乱にタクトを振るうオーケストラの指揮者や、ボロボロの服を着たストリート・ミュージシャンや、サンバを踊りながら歌う女性歌手や、リズミカルに言葉を繋ぐラッパーや、教会で歌うシスターや、いろんなミュージシャンたちが住んでいて、今日も音楽フェスティバルを開催していることだろう。

We AreThe World

誰もが知っている有名な曲、「We Are The world」のドキュメンタリーに「We are the world the story behind the song 」という番組がある。

見たことのある人はたくさんいるだろう。Youtubeとかでいまも見ることができる。DVDでも見ることができる。あの伝説の名曲を録音する一日を追ったドキュメンタリー番組だ。

その番組のなかでこんなシーンがある。

マイケル・ジャクソンがサビの部分を録音する場面。
彼は同じフレーズを何回も繰り返して歌い録音するのだが、マイクから自分が立つ位置を少しずつ後ろにずらしながら、マイクとの距離を変えながらレコーディングしている。前の距離で録音した声に違う距離で録音した声をかぶせる。
指示を出しているのはおそらくクィンシー・ジョーンズ。
そうすることによって、1人の声をかぶせても音に広がりがでるのだそうだ。


ここに着目したい。

音に広がりを持たせると同時にこれはきっと「ゆらぎ」の作り方だ。

小川の水にしても風が葉を揺らす音にしても「音のゆらぎ」は人の心を癒す力があるという。

距離を変えることによって空気を伝わる振動も変わり、似ているが微妙に違う同じ人の声を入れることで、ズレが生じ、微妙な音の違いが「響き」となり、それは「ゆらぎ」となったのだ。長年のレコーディング経験からくる知識と技はその方法を彼らはすでに知っていたに違いない。

そして「音がゆらいでいる」から、なお一層あの名曲は、人々の心を癒し、得たいの知れない感動を聴く人々に与え、色褪せることのない時を超えた名曲になったのではないか、と空想した。


そもそも参加した45人がそれぞれ絡んでいる段階でも予測のつかない「ゆらぎ」の集合体と化しているはずで、さらに現場のアーティストの熱気と想いが曲のエネルギーを倍増させたことはいうまでもない。

2010年7月24日土曜日

音楽を聴くとは

脳は記憶する
一箇所でなく全体で
何箇所かに分散して

音楽は波で伝わる
空気の中の振動
波が振動が脳に届いたとき
脳を刺激する
その波の種類によって
刺激される脳の箇所は違う

それぞれの音楽がそれぞれの箇所を刺激し
それぞれの記憶を呼び起こす
それがはじめて聴いた音楽でも
脳のどこかを刺激することによって
いつかの記憶を呼び起こす

はじめて聴いたクラシックが
幼い頃に見た風景を想起させる
久しぶりに聴いた90sが
あの頃の笑い声や空気、温度までを頭の中で再現する

知らない音楽が
自分の知らない場所に波を伝え刺激し
新しい気持ちが生まれる
楽しい気持ちが生まれる
安らぐ気持ちが生まれる

新しい自分がはじまる

だからぼくらは
音楽を聴く

2010年7月19日月曜日

映画「ソウルパワー」1

ひさしぶりにすごい映画を観てしまった。音楽の映画だ。
「ウッドストック」とか「ロッカーズ」とか、そういうレベル。
映画「ソウルパワー」。



この映画は、1974年、ボクシングのモハメド・アリとジョージ・フォアマンの対戦がアフリカのザイール (現コンゴ共和国) で行われたことと関係している。

世紀の一戦がアフリカで行われる。スポーツ界のみならず、黒人対白人という図式においても大変刺激的な世界的にエポック・メイキングなイベントだった。その模様は、当時をリアルタイムで覚えていない人でも、レンタルビデオで確認できる。

それが、映画「モハメド・アリ かけがえのない日々」。
この作品、実は公開は1996年である。コンサートから22年後。
なんで22年かかったかも、簡単に説明できる原因ではなさそうだ。
とにかく22年という時代の変革期間が必要だったとしかいいようがないのが事実だろう。
そしてこの映画は見事、1997年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を獲得している。絶対に観るべき名作だ。

それに比べると、世の中にあまり知られていない大きな事実が当時、もうひとつあったのだ。
ボクシングだけでなく、実は音楽の祭典も企画、実施されていたのだ。

それが「ザイール'74」と呼ばれる3日間にわらるコンサート。
ジェームス・ブラウン、B.B.キング、セリア・クルーズス、ビル・ウィザーズ、ザ・スピナーズ、ザ・クルセイダーズらとアフリカのミュージシャンたちがラインナップされ、競演するという音楽界においても歴史的なイベントだった。観衆は8万人だったという。

その様子を捉えたのが、映画「ソウルパワー」だ。
実にコンサートが行われてから35年経ってやっと編集、公開にこぎつけた。

「モハメド アリ かけがえのない日々」は人種差別を含むアメリカの社会的テーマを全世界に提示し、自由を世界に問いただした。

だが、「ソウルパワー」でのメインテーマは音楽だ。

アフリカン・アメリカン・ミュージシャンたちと、アフリカ、ザイールの人々のはじめての出会い、交流が描かれ、そこには喜びと戸惑いが交錯するといった混沌とした状況がドキュメンタリー・タッチで構成されている。

もちろん、ミュージシャンも闘っていた。ジェームス・ブラウンの劇中の言葉からは当時の彼らの人種差別における迫害や、長年の夢でもあったアフリカへの回帰の思いなど、同じく時代と闘う姿を映し出している。

当時、音楽の世界地図はどうだったのか?ソウルは、ファンクはR&Bは、アメリカン・ミュージックの立ち位置はどうだったのか?

「ソウルパワー」にはそれらのヒントがたくさん詰まっている。公開がもし終わったら、ぜひ、DVD化を願い、多くの音楽ファンが触れることのできる環境にしてほしいと願う1本だ。

そしてもう1本関係する映画がある。
これはさらに知られていない存在だ。
それが、映画「Fania All Stars Live In Africa」。

ファニア・オールスターズというのは、ニューヨークの音楽専門レーベル、ファニア所属のラテン・スターたちによるオール・キャスト、スーパー・サルサグループ。彼らが中心のライブ映像となっている作品。ちなみにファニア・オールスターズこそが、サザン・オールスターズの名前の由来らしい。

「モハメド・アリ かけがえのない日々」でも「ソウルパワー」でも満足できないラテンミュージックファン必見の映画だ。監督は、「モハメド アリ かけがえのない日々」同様、レオン・ギャスト。こちらは実は1974年、つまりすぐに当時公開されている。しかし、逆に、日本で手に入れるのが難しく、自分は何年か前に輸入盤で購入。ぜひとも手に入れたい。

この3本で、やっと、なんとか、1974年の「ザイール'74」の全体像が立体的に浮かび上がってくるのだった。
(つづく)
映画『ソウル・パワー』

2010年7月13日火曜日

雪は吸音材

雪は吸音材なんだって!

確かに雪が降ってたり、つもったりすると、シーンとした感じがする。
実は、感じじゃなく実際に雪がいろんな音を吸って無くして、いつもより音のない世界にしてるってことみたい。

実際,雪の吸音性はかなり高く,吸音材料であるグラスウールボードというものと同じくらい高いそうで,特に600Hz以上の高い音に対して80~90%の吸収率である、という情報もありました。

なんかそういえば、数年前にオーロラを見にカナダの山間部に行った時、当然そこはマイナス20度とか30度とかの世界で、あたり一面雪景色。

そのときに、窓を少し開けて夜空を見ていた時とか、翌朝、雪の中を散歩したこととか、ほかの観光地の思い出とは少し違う記憶で自分のなかにファイルされているような気がします。その違いがこれでわかりました。その思い出には無駄な音がない。なにか、画像でいうとフィルターの種類が違うような、質感でいうと一枚なにかが抜けているような、そんな思い出の違い。音でいうと、そうか、確かに音が吸われて無くなった状態だ!自分以外のまわりの時間だけがストップしたような不思議な感覚。

そうなった時に人間は聞こえる限りの小さな音に耳を傾けたり、さらに音が無ければ自分の内面に耳を傾けるそうです。

だから雪の世界はどこか神秘な気配を感じるのかもしれません。

だとしたら、雪の世界に旅行するのもいいですね。
たくさんインスパイアされそう。
寒いけど。

2010年7月10日土曜日

カバーソング

カバーソングは日本では大人気です。
徳永英明とかね。

カバーソングの楽しみかたって、もともと知ってる曲だから楽しいわけですよね。
「あーこの曲は知ってる。違う感じがして新鮮」とか「リズムが変わってもおもしろい」というように、明らかにオリジナルの知識が断片的に自分のなかにあって、音楽を鑑賞しています。その際にはオリジナル曲に対する感覚とそのほか自分の今までの音楽的体験からくるストックしてある音楽知識をフル活動させて、新しいカバー・バージョンに対して「聴いて」います。

でもなんでここまで日本人はカバーソングが好きなのでしょう?
日本人は、この「照らし合わせる作業」が好き、もしくは得意なんじゃないでしょうか?

新しい曲を聴く、という行為はある意味、自分のなかに新しいものを入れる作業で勇気が必要です。ちょうど初めての人と会ったときのように。

それに比べて、カバーソングの場合、
前の仕事先で知り合った人にばったり会ったら、向こうも会社変わってた、くらいの感覚で、「あー、どーもー」くらいはシャイな自分でも言えちゃう。そんな感じでしょうか。

つまり受け入れやすいのです。

自分自身にイエスという理由をつけやすい、そんな国民性でしょうか。
ちょっと古いですが、「NO と言えない」国民性でしょうか。
他の海外でももちろんカバーソングたくさんありますが、日本は特に好きな国民のような気がします。ぼくも好きです。

ただ本来のカバーソングは、音楽的にリスペクトしている、影響を受けたことへの敬意を表する意味を込めてカバーしますが、最近の日本のよくあるパターンは、カバーだと売れるから、という理由が少なくありません。

ところで、ふと思いついたのですが、
ヒット曲がでて、それをいろいろな人がカバーするのであれば、いっそのこと、最初から同時にいろいろな人がリリースするのはどうでしょう?

たとえば、Aという曲を、同じ日に、Superfly もコブクロも青山テルマも坂本冬美も同時リリースする。違うリズムで、違うアレンジで。ある人はロック風に、ある人は歌謡曲風に...シンガー、みんながオリジナルです。
これって、結局、もともとのその曲がどんだけ価値があるんだ?有名な人が書く曲で必ずヒットするだろうから、という前提が最初は必要かもしれません。例えば、曲はサザンの桑田さんが書く。みたいな。ビジネス的にも多方面に広がりがでておもしろそうだと思いませんか?同時20人リリースとか。(本家本元のサザンは最初は出さない、というのがポイントになりそうですが)

カバーって、「知ってる曲」という基盤のほかに、もちろん、いい曲だから広めたい、いい曲だからカバーしたい、いい曲だから好きだ、というもともとの「いい曲だから」という根源があるはずです。
ならば最初からいい曲をみんなで歌ったほうが、ひとりのアーティストのファンだけで共有するよりも、それぞれのアーティストのフォロアーにもアプローチできて、曲のためにはいいのではないか、と思ったりもします。twitter で情報が広まるようなシステムで。


誰かやってください。大物アーティストのかた。

2010年7月9日金曜日

耳をすませば

-音楽を聴く-という行為はとても創造的なこと。

茂木健一郎/江村哲二の ”音楽を「考える」”という本に書かれています。

音楽を作ることが創造的、クリエイティブな作業であることには誰も異論はないでしょう。
でも、作曲という作業でさえも、まずは自分の内なるものに耳をすませて、そこから沸きあがってくるものを外へ出す。自分の内なるものは、普段から聴いている音楽の蓄積によるものなので、この一見、相反する「聴く」と「作る」はつながった関係だそうです。

では単純に音楽を楽しむだけの音楽鑑賞はどうかというと。

これも、音楽を楽しむには、もともと自分のなかに蓄積された音楽と照らし合わせながら、「この曲は好きだ」「なんだか楽しい」「いい曲だ」と分析していくので、聴くという作業はただ耳を通しているだけでなく、この ”照らし合わせる” 作業であり、創造的なことだそうです。
そのストックが豊富であればあるほど、音楽鑑賞もさらに深く楽しむことができるわけです。結果、曲を作る人であれば、生まれてくるものも、より「広い領域」のなかからひとつのカタチが生まれてくるのでしょう。

作るものがたとえ、音楽でなくても、絵でも写真でも文章でも、インプットするものとアウトプットするものの関係は常につながっていそうです。

2010年7月4日日曜日

クリエイティブ、モーツァルト、ウォーキング、シャワー

クリエイティブな発想が欲しいとき。

サボっちゃうのがいいんですよ。
企画とか考えなきゃいけないとき、いろいろググってみたり、資料を読んだりするけれどなかなかアイデアが浮かばない、そんなことってよくありますよね。もしくは煮詰まる、みたいな。

歩くのがいいらしいですよ。
ほら、昔から映画とかでも「ウーン」って考えるときには、腕組んで部屋のなか歩いたり、右行ったり左行ったりして、そのうち「そーだ!」なんて思いつくシーンがありますが、あながちあれも嘘じゃないということです。

根拠は、歩いたりすると、下半身にある血が全身に行き届いて脳が活性化するそうです。
ウォーキングにしてもランニングにしてもいわゆる「ハイ」な状態になると、脳は活性化し、クリエイティブなアイデアが出やすい状態になってるようです。
それまで言葉で考えたり、読んだりして左脳ばかり使っていたのに、少し休ませて歩くことによって右脳が活性化するのでしょう。
ぼくは脳の専門家でもなんでもないので詳しいことはわかりませんが、結局、クリエイティブな発想の生まれる瞬間って、右脳と左脳がバランスよく両方働いている状態のときではないかとおもいます。

で、こんな話もあります。

フランスの音響心理学者の故アルフレッド・トマティス博士(1920~2001)によると、モーツァルトの曲が、胎児がお腹の中で聴いている胎内音と同じ8000ヘルツ以上の高周波を含んでいることを発見、その音楽は、心身をリラックスさせ、また脳の想像力や意欲をかき立てる領域に刺激を与え、あらゆる面で脳を活性化する働きが強いのだそうです。
さらにモーツアルトの音楽には「和音」が多く、鐘や風鈴と同じ音の成分によく見られる「音のゆらぎ」のようなものが多く含まれているそうです。

そういう意味では、

よく子供の頃、「何かをしながら〜」は、いけないこととして注意されましたが、なにかをしながら勉強する、なにかをしながら考える、というのも実は使い方によっては良いことなんじゃないか、と思えてきます。

実際、チルアウト系のエレクトロニックなど聴きながら仕事をしていると非常に気持ち良く仕事できたり、集中できたりすることありませんか?

あれって、左脳で仕事して右脳で音楽聴いて両方働いてて、脳がバランス取れててちょっといい気持ちでのびのびしてるんじゃないかと思います。疲れてなく元気な状態。
あくまで音楽が思考を邪魔しない性質のもの、というのが条件ですが。

そういえば、
ぼくはよくあるのが朝シャワーを浴びている時にアイデアが浮かんだりします。


これはどういうことでしょう?
もしかすると、寝てるときに夢とか見ていて夢を見てるときは右脳が活発だということなので、そのあと、起きてシャワーの音を静かに聴くことによって、日本人特有の自然音を左脳で聴くのと同じ様に、シャワー音を左脳で聴いているのかしれません。水の音として。その結果、右脳と左脳のスイッチが両方オンになって、そんなときにアイデアが浮かぶ……

そしてあのシャワーの音。
モーツァルト同様、「音のゆらぎ」が含まれているのではないでしょうか。

あくまで仮説です。
まあシンプルに言っちゃうと、気分転換っていうのは絶対大事。
だから、アイデアが必要ならサボった方がよさそうです。
少し遊んだほうがいいはずです。
そんなとき、メロディとか作詞とか企画のアイデアとか解決策とかひらめく瞬間があります。

2010年7月3日土曜日

音楽と脳

1978年に出版された書籍「日本人の脳」(角田忠信)によると、ー日本人と西洋人の感性の相違は左右の脳の機能の違いに基づき、その違いを解く鍵は母音が大きな役割を果たす日本語の特殊性にあるーという。

脳には右脳と左脳がある。
それはなんか聞いた事ある。

で、左脳と右脳で聴く対象のものが違うらしい。

たとえば、


* 左脳…言語的、論理的、分析的、代数的、右半身の神経、論理思考
* 右脳…イメージ的、直観的、総合的、幾何的、左半身の神経、絵画・音楽

でも日本人と日本人以外の場合、少し違いがあるそうです。


小鳥のさえずりから雨だれまで、風の唸り声から笑い声や叫び声まで、

「日本人はすべての自然の音を左脳部分で聞いている」。
「ほとんどの世界中の誰もが、自然音は右脳部分で処理している」。

だって!

日本人の特性の秘密はこのあたりに!?


さらに、基本、音楽は右脳なんだけど、ある状態においては左脳で聴くことがあるんだとか。
その状態とは、

FM音源(周波数変調音)が加わると、倍音関係の周波数構成の楽器でも言語脳優位になる!

また難しい言葉でてきた....FM音源(周波数変調音)

つまりシンセサイザーですよ。
シンセサイザーが入ってくると、「日本人の場合に限り」その音は左脳が優位になって、左脳で(も?)聴くと。

言語は脳処理のなかでもなによりも優先されるプライオリティが高く、それは左脳で処理される。
その左脳での処理が、FM音源(周波数変調音)が加わると音楽でも左脳で処理する、と。

まじっすか!

そのことと、ゲーム音楽の独自の発達、着信音のメロディの普及、YMOの世界での成功、みたいな日本の誇れるカルチャーとどう関係しているのだろうか?シンセサイザーが出現してからの音楽と、ことば、ラップ、ビートの関係、とかどうなんだろう?日本語と英語による違いと音楽の関係はどうなんだろう?

これがこのブログの最大のテーマです。



ぼくら日本人にとって、英語も大切だけど、日本語も大切で、ほら、ワールドカップとか見ると、日本の良さって日本独自の協調性とかチームワークこそが世界に誇れるわけで、あれはなかなか海外の国ではあのレベルの協調性までには到達できないのではないでしょうか。ぼくはそれは「日本人が持つ修羅場での協調性ハイ状態」だと思います。もしかすると、その日本人だけの特性は日本語から来てるんじゃないか?というところに興味が湧いてしましました。そこから見える日本人の音楽の特徴について、いろいろ空想してみたいと思ってます。