2010年9月26日日曜日

音楽の時代

環境問題が急にクローズアップされたように、
農業に再び注目が集まったように、
音楽はこれから、新たな価値観を持ってヒトにとってかけがえのない存在になるだろう。

音楽が本来持つ力、未知のパワー、まだ解明されていない領域にスポットがあたる。
ビートが、メロディが、ダンスが及ぼすヒトの神経、脳への問いかけ。記憶との対話。感情への道先。
ヒト宇宙のネットワークのなかで、遠く失ったものさえもどこからか呼び戻す「媒体」となり、新たなネットワークを繋ぎ生み出す「むすひ」となる。

それは医療に。治癒に。
パッケージとかセールスといった次元とはまた違う次元での活用。

音楽こそは、これから始まる高齢化社会の中で示される人間の作り出した豊かな贈り物であることへの再認識、再確認の時代が到来する。

実はここからが、いよいよ音楽の出番だ。

2010年9月11日土曜日

twitter 枕詞

インターネットが現在のように高速で情報を処理できる理由は、「すべてのことを数字で表す」というデジタル化が根本にあります。
一枚のきれいな絵も数字の羅列ですべてを表現することができるでしょう。

また、検索においても、ドメイン名があり、世界中で唯一のものとして、即座にたどりつけます。

こうした「情報のインデックス」にあたるものが twitter にあってもいい、と思いました。

最初の発想は、自分がつぶやく重要レベルを1〜5 にし、冒頭に付ける機能。

「今日、食欲ないなぁ」というのは、そのつびやきが原因で日米関係が悪化することはないからレベル1とか。「今、センター街で若者が銃で撃ち合ってます」なんてのはレベル5でもいいんじゃないかと。確かに、3と4の差が難しいとか、発信者が5の気持ちでも読む人にとっては1以下なんて情報も山ほどある。でもそれもおもしろい。あるひとのなにげなく思いついた発想は、そのひとにとっては、レベル1でも別の人には金の格言であることも多いでしょう。
そして、retweet を通じて、その数字がなんらかの合算方式で加算されるとなおおもしろそう。

てことを考えてて、それを以前、twitter のなんかのアンケートに送ったこともあります。
きっとスルーされてることでしょう。

今日はまた別で、
twitter の発言の「twitter 枕詞」ができないか、というアイデア。
枕詞という言葉が意味をせばめてしまうかもしれませんが。

和歌には枕詞が使われてきたが、これは言い換えれば、歌のなかでの「情報のインデックス」といえます。

「ひさかたの」といえば、その和歌は、天とか月とか雲とか光に関係することをこれから詠みますよ、というガイドライン。
そのひとことで、聴く方はその「久方モード」にグッと聴く姿勢を一気に傾け気持ちをフォーカスします。

この機能、すごくないですか?
まるでインターネットの検索です。
昔の日本人はすごいことを生み出してました。

これだけで、140文字という限られた文字数のなかでの5文字でだいたいの言いたいイメージを瞬時に分別できるはずです。
枕詞のような言葉は、これから生み出せばいいのです。
枕詞は単純に詠まれる歌の背景とか状況の情報を表しますが、twitter の場合には、自然、社会、文化、ビジネスなどといったカテゴリーの他に、news とか、ひとりごと、とか、意見、とか、そういった形態を示す枕詞が出来てもいいかなと思います。

古来の枕詞を復活させよう、という意図ではなく、
せっかくtwitter も盛り上がり、その盛り上がり状況も日本だけ特異な上昇カーブを描いているので、画期的な文化が生まれてきてもいいなぁと思います。

利点はスピードアップというほかに、やはり、発信者の立場、姿勢がはっきりするのかなと思います。たくさんの事を説明するには文字数が限られ、フォロー、フォロワーもどんどん増えていくでしょうから。

なんにもないところからはじめるのも大変なので、「枕詞」を今風に変形させていくのもおもしろそうだな、と思いました。

ただ、即効性が求められる twieer という性格上、「う〜ん、枕詞が思い浮かばない、枕ことばがわからない」なんてことになりそうです。

このアイデアはレベル1で。

2010年8月29日日曜日

最初のフォロワー

まずはドカーンとYouTubeを見てもらって。
といっても、もう有名なので、知ってる人も多いことでしょう。



ほほー。こうしてムーブメントは起こるんですね。

この図式を今後のミュージック・ビジネスに当てはめてみましょう。

最初に裸で踊りだすリーダー = アーティスト、音楽家、パフォーマー
一番最初のフォロワー    = 新たな役割
次々と続くフォロワー    = ファンの人たち、大衆

ということになり、一番最初のフォロワーが行った役割こそが、今後の新たな音楽ビジネスにおけるキーのポジションになるのではないでしょうか。

個人であれ、レコード会社を通じてであれ、世の中にデビューしてくるアーティスト。
日本レコード協会の発表では、この不景気といわれる音楽業界ですが、毎年デビューするアーティストの数は、2000年に比べると、2009年の段階で3倍以上の伸び率となっており、ほぼ毎年増加しつづけています。

ミリオンセラーといったビッグヒットの数が激減した分、数を増やしているのでしょうか?それとも以前に比べて、デビューするにあたり技術の進歩によりレコーディング費用をはじめ、レコード会社の投資する額が少なくてすむようになった結果、デビューするアーティストが増えたのでしょうか?

しかし、その反面、多くのレコード会社はスマート化を迫られているご時世です。
そうすると、いままでプロモーションと呼ばれていた部分、つまりアーティストの宣伝、企画、さまざまなフォローが手薄になる可能性もありますよね。たくさんアーティストが増えているのに、スタッフの数が少なくなって、手がまわりきらない、とか、いいアーティストでも会社のプライオリティのなか、埋もれてしまう可能性もあります。

個人でデビューする場合でも、twitter とかYouTubeとかあらゆるソーシャル・ネットワークを駆使して、プロモーションしたとしても、さらにネクストレベルにいきたいとき、大きなきっかけが欲しいはずです。そのときに、この「最初のフォロワー」の役割をするグループ、会社があるといいと思います。

この会社は、「いい!」と思ったアーティストをまず、発見する。
確信したら積極的に同じ立場にたって、ストーリーを考え、さらなるフォロワーを呼び込む。
ムーブメントに向けて動き出すクリエイター集団、広告代理店のようなものでしょうか。もっと、アーティストサイドに近い立ち位置で音楽だけに特化するようなイメージです。

でも今の状況ですと、個人のアーティストが、簡単に有名広告代理店にぼくを使ってスポンサーをつけてください、なんて相談をするにはハードルが高すぎます。そのハードルをぐっとさげるのです。個人のアーティストでもすぐれたアーティストであれば大きなメディアに売り込みにいくのです。

最初のフォロワーでないと意味がないので、まだ世の中に知られていない段階で、アーティストの音楽性に惚れ込み、同じ方向で活動することに喜びを見いださなければいけないでしょう。当然、音楽、流行、世間の動向などを視野にいれながらも音楽に対する愛情を持っていなければ、アーティストからも見放されるでしょう。

ひとりのアーティストにひとつのスポンサーがつくようなこともあるかもしれません。
アスリートのウェアにスポンサー名が入るように。
高校生だけをターゲットにしたフォロワーの増やし方にはそれなりのテクニックも必要と思われます。
メディアへの仲介も重要な役割で、そのためには、数字的なアーティスト、マーケットの分析が不可欠です。

レコード会社がシェイプアップするなか、音楽業界でもそんな仕事がクローズアップされるのかも、と思わせた動画でした。

2010年8月28日土曜日

ポップス

ポップスとはなんだ?
アイドルのことか?
大衆向けの音楽を指すのか?

先日どこかで耳にした話。
美人とは世の中のすべての女性の平均を形どったものを作ったら、「美人」ができるという仮設。
とか、
もっとも美しい人間のできる目と口のあいだの間隔と顔の横の広さに対する目の位置の間隔で顔の黄金比が割り出せるとか。それにあてはめると、シャナイア・トゥエインがその美人黄金比にあてはまり、アンジェリーナ・ジョリーはあてはまらなかったとか。

どちらが美人かという話しではないが、
つまり、音楽でいうポップスとはこの美人黄金比ではないだろうか。

世の中のあらゆる音楽の平均値。黄金比。それはひとつの美しい音楽だ。
でもそれが好きな人もいればそうでない人もいる。
アンジェリーナ・ジョリーの方が最高だ、という人がいるのと同じだ。
ワイルドなロックンロールが好きな人もいるだろう。

雅楽もあればアフリカンミュージックもあり、レゲエもあれば演歌もある。ロシア民謡もヒップアップもすべての音楽の平均値がポップス。

いろんな要素が凝縮される分、個性が弱いかもしれない。
毒がない分、受け入れやすいかもしれない。

これらがポップスの骨格だ。

さらに、
音楽の場合、そういった音楽のスタイルに加え歴史も自然と取り込まれる。
歴史はお化粧のようなものだろうか。
服装のようなものだろうか。
ファッション性を持って常に今の流行が反映される。
ときには少しレイドバックした感覚が最先端のときもある。

こうして出来上がったものがポップスだ。

そしてもっとも重要なのが聴く人には好みがあることだ。
いくら世界中でこれが一番平均化された素晴らしい音楽で今を捉えているよ、といわれても好きになれないものはなれない。
それはひとつの尺度で測るものではなく、複数の好きになる要因が重なってはじめてその音楽を好きになるからで、そこに聴く人=自分との対話が決め手となるからだ。

ただ単純に人を好きになるのが顔だけでないのと同じですね。

ついでにいえば、ポップスが大好きな人もやっぱり多いですね。
Popular Musicか。

2010年8月21日土曜日

I Gotta Feelin'

僕らは日本語を話します。
言葉と音楽とは非常に密接な関係があり、ひとつの言語の特徴はひとつの音楽の特徴を形成するのです。

例えば
英語には the や a といった冠詞があり、
日本語にはない。
これが意外と音楽において大きな違いを生み出していることに気がつきました。

少し前に、
NHK の教育テレビの「スコラ」という坂本龍一が音楽を"教授"する番組で細野晴臣がゲスト出演してまして、ベースについて語っていたとき。

細野さんは、若い頃にモータウンのベースをすごくコピーしたりして練習したそうで、そのときにアメリカ人(黒人?)特有の「音の前に入る無音の音」…(確か番組では「ミュートされた音」と表現されていたような)…が入ることに気づかれその「音の前の無音の音」を弾く練習をすごいしたそうです。彼らのグルーヴを取り入れようと。
つまりそこに大きな違いがあり、その無音の音を弾くことがベース演奏においてとても重要だよ、という神のようなアドバイスでした。
番組は中学生とか高校生も含む音楽入門者を対象にしておきながらこんな哲学のようなことを語るところが深いですね。

さて、
このグルーヴ感につながる無音の音、よくビートで「裏」とかいいますが、その感覚でしょうか?
アップビートという言葉もあります。

このアップビートにあたるものが英語の冠詞と関係があるのではないか、と思ったのです。

Black Eyed Peas の僕の大好きな曲のひとつに「I Gotta Feelin'」という曲があります。
この曲、冒頭からくどいほど繰り返されるサビの部分は、

I gotta feelin' that tonight's gonna be a good time…

となります。

ここの「that」の部分が注目です。

That は語学文法的には冠詞ではないのでしょうが、音楽のリズム的には A や the と同様、この that がアップビートの役割を果たしています。

つまり感覚で覚えてしまっている無意識のような言語。

もちろん最近の日本の音楽もこうしたアップビートを取り入れて音楽のノリも変化してきています。が、音楽のレベルがどうのこうのではなく、自然にそれが歌や演奏にでてくる、という点が言語と音楽の密接な関係を示しているのだな、といいたかったのです。

だから日本語のノリ的には、that を省略して tonight's gonna be…から歌っても歌えます。
拍だけで考えるとtonight's からはじめたほうがダウンビートではじまります。
ただ聴く人には平坦な印象を受けるかもしれません。
そこにアップビートで that が入ることによって、グルーヴ感が増す、というわけです。
ここでは「ミュートされる音」が that としてしっかり入っているわけです。

こういった例はたぶん a や the が無数にあるように数えきれないくらい音楽のなかに自然にあるんだと思います。

せっかく Black Eyed Peas を例に出したので、"I Gotta Feelin'" のこの動画をおすすめします。ここまで書いた話と直接関係はありませんが、ぜひ、お客さんの様子と、それに反応するステージにいる黄色い服を着た女性の反応に注目して最後まで見てください。

見終わったら、”何かいいことありそうな” 本当にしあわせな気持ちになれるおすすめ動画です。

2010年8月13日金曜日

電子ブックのその先

CDが売れなくなった、CDショップがまたひとつ減ってゆく、というニュースは寂しい限りだ。
一方、夏フェスのこの時期になると、本当に音楽業界は不況なのか?というほど各地で音楽の話題が事欠かない。

電子ブックが巷で注目されるなか、書店と本との関係はどのくらい音楽業界におけるCDショップとCDの関係に似ているのだろうか?

全国の書店も激しい競争の結果、全体では店舗数は減少し、中型、大型の店舗を拡大してゆく傾向にあるようだ。
小さな書店はかなり目立つ、アグレッシブな、個性的なキャラクターが必要とされそうだ。
すごい目利きがいるとか、ある一定のジャンルに特化しているとか、複数の本のつながりでひとつのテーマを語るようなまとめ売りができる説得力のある書店とか。

と考えるとやはり音楽業界がたどっている道との共通点が見え隠れする。
でもせっかく似ているのなら、ポジティブな面も期待したい。

ずばり、「フェス」だ。
音楽ビジネスでライブが元気がいいように。

大勢の著者がしゃべる、本フェス。


小説家のなかには喋るのが好きではない、という人も少なくないだろうが、本には色々な種類があり、芸術家もいれば、宗教家もいるし、経済学者もいるし、宇宙飛行士もいる。料理家もいれば、音楽家もいるし、政治家もいる。喋るのが得意な人もたくさんいる。その方々がとっておきのテーマをしゃべるライブ。
常に4つ、5つのステージというか会場が隣接していて、訪れた人は自由に行き来し、聞くことができる。なかにはワークショップのような形や、パネルディスカッションもあったりして。
ちょっとした「知」のフェスティバルなんだけど、堅苦しくない雰囲気で。若い人も興味を持つようなラインナップで。出版社の壁を超えたブッキングで。

本の内容からさらに一歩踏み込んだ解説や、その日限りの限定エピソード、ちょっとした経済セミナーとか、やり方はいくらでもありそうだ。
おいしい料理もあるといいな。

なんなら「秋フェス」って呼ばれたりして。

2010年8月5日木曜日

ライブハウスのこれからカタチ

宮入恭平という方が書いた「ライブハウス文化論」という本を読んだ。
ライブハウスの歴史、海外とのちがい、ノルマ制、ミュージシャンが表現する場所と街の在り方、などについて書かれている。

この本は2008年に出版されているので、TwitterとかUstreamが日本で一気に注目を浴びた2009年2010年とは少し状況が違うかもしれない。
では、twitter, Ustream本格化以後の「ライブハウス」はどうなっていくだろう?

ひとつは、極力お客さんのいないスタイル。
カラオケボックスのような広さで演奏する様子をUstreamで流し、課金する方法。
これも立派なライブだ。
流れているストリーミング動画があまりに魅力的であれば課金するだろうし、なによりもアーティストの方々に直接お金が入る仕組みをこれほど誰の目にも明瞭な形で実践することに意義がありそうだ。アーティストは安い場所代で演奏が可能になり地球上のどこへでも演奏をみてもらうことができる。
つまらないもの、興味のないものには課金しないだろうし、「ただなら見てもいいけど有料なら見ない」というものとの境界線ができるのも面白い。で、アーティストの質は淘汰されるだろう。


もうひとつは一人のアーティストの演奏でお客さんを呼ぶのではなく、「大きなまとまった集まり」のカタチ。

演奏するアーティストがいて、もちろん演奏するけれど、Twitterなどでできた大まかな輪が集う会。アーティストの演奏とオフ会が一緒になったような。つまり、参加者はアーティストのライブも楽しむけれど、来た人同士の交流も大きな楽しみのひとつ、というパターン。

こちらは、飲み食いできてある程度広さのある会場が望ましい。いまのライブハウスくらいの。そこに集まってくるであろう人々のタイプ、共通する志向性などがあらかじめわかっていると、その場所へ行くこと自体が楽しみになるはず。イギリスのパブとかに近いノリ。ライブの告知方法も、第3者からみてもどういった種類の人たちが集まるのかがわかるようなタイトルにするべきだ。「ニューヨーク好き」でも「SEX and the CITY好き」でも「ワールドカップ」でも「家庭菜園」でも何でもいい。そして趣旨にあったアーティスト。

合コンでもサロンでもない、カラオケボックスでもライブハウスでもないコミュニケーションの場所。その中心にアーティストの演奏とアーティストの人間力のパワー、コミュニティ、つながりのある図式。そこにつながっているお客さんも傍観者でなく、参加者で、時には誰かに見られる存在でもあるカタチ。

飲んで食って歌って、盛り上がってまた飲んで。場所を提供する側も飲食代で利益をあげて出演者へのノルマを設けなくてもよくなるように、音楽もコミュニケーションだ、というポイントにより重点を置く手法。

どうかな?

2010年7月31日土曜日

脳内音楽フェスティバル

卵が先か、鶏が先か。

松岡正剛の「17歳のための世界と日本の見方」という本を読むとそのなかに、人間の歴史上、言葉が先か物語が先か、という問いが出てくる。

どうやら、脳の中であるつながった情報が先に作られ、それを口に出して伝えるために言葉が生まれたらしい。物語が先なのだ。

同じ事が音楽にもいえないか?

メロディを奏でる、歌うという行為は、先に脳の中で音楽が鳴っているに違いない。
それを外にアウトプットする作業が曲を作る、ということだ。

どうやったら脳の中で自動的に演奏をはじめるだろう。
きっと、それは自分が生まれる前からの記憶も含め、今日までのありとあらゆるメロディが精密に全て記憶されていて、ある現体験によって、本人ですら認知していないような忘れているメロディの記憶を呼び起こすことによって、音楽が鳴るのではないだろうか。

思いもよらない出来事、ひょんなことが記憶の一部分を刺激して、脳のなかで音符がつながり、時には思いもよらないメロディが出てきたり、時には自画自賛のメロディに出会えたりするのだろう。

だから、アドリブとか作曲においては、音楽が先に脳のなかで鳴っていて、それを伝えるために口に出して歌ったり、楽器を用いて演奏したりするのだと思う。

知らないだけで、自分の脳のなかには、一心不乱にタクトを振るうオーケストラの指揮者や、ボロボロの服を着たストリート・ミュージシャンや、サンバを踊りながら歌う女性歌手や、リズミカルに言葉を繋ぐラッパーや、教会で歌うシスターや、いろんなミュージシャンたちが住んでいて、今日も音楽フェスティバルを開催していることだろう。

We AreThe World

誰もが知っている有名な曲、「We Are The world」のドキュメンタリーに「We are the world the story behind the song 」という番組がある。

見たことのある人はたくさんいるだろう。Youtubeとかでいまも見ることができる。DVDでも見ることができる。あの伝説の名曲を録音する一日を追ったドキュメンタリー番組だ。

その番組のなかでこんなシーンがある。

マイケル・ジャクソンがサビの部分を録音する場面。
彼は同じフレーズを何回も繰り返して歌い録音するのだが、マイクから自分が立つ位置を少しずつ後ろにずらしながら、マイクとの距離を変えながらレコーディングしている。前の距離で録音した声に違う距離で録音した声をかぶせる。
指示を出しているのはおそらくクィンシー・ジョーンズ。
そうすることによって、1人の声をかぶせても音に広がりがでるのだそうだ。


ここに着目したい。

音に広がりを持たせると同時にこれはきっと「ゆらぎ」の作り方だ。

小川の水にしても風が葉を揺らす音にしても「音のゆらぎ」は人の心を癒す力があるという。

距離を変えることによって空気を伝わる振動も変わり、似ているが微妙に違う同じ人の声を入れることで、ズレが生じ、微妙な音の違いが「響き」となり、それは「ゆらぎ」となったのだ。長年のレコーディング経験からくる知識と技はその方法を彼らはすでに知っていたに違いない。

そして「音がゆらいでいる」から、なお一層あの名曲は、人々の心を癒し、得たいの知れない感動を聴く人々に与え、色褪せることのない時を超えた名曲になったのではないか、と空想した。


そもそも参加した45人がそれぞれ絡んでいる段階でも予測のつかない「ゆらぎ」の集合体と化しているはずで、さらに現場のアーティストの熱気と想いが曲のエネルギーを倍増させたことはいうまでもない。

2010年7月24日土曜日

音楽を聴くとは

脳は記憶する
一箇所でなく全体で
何箇所かに分散して

音楽は波で伝わる
空気の中の振動
波が振動が脳に届いたとき
脳を刺激する
その波の種類によって
刺激される脳の箇所は違う

それぞれの音楽がそれぞれの箇所を刺激し
それぞれの記憶を呼び起こす
それがはじめて聴いた音楽でも
脳のどこかを刺激することによって
いつかの記憶を呼び起こす

はじめて聴いたクラシックが
幼い頃に見た風景を想起させる
久しぶりに聴いた90sが
あの頃の笑い声や空気、温度までを頭の中で再現する

知らない音楽が
自分の知らない場所に波を伝え刺激し
新しい気持ちが生まれる
楽しい気持ちが生まれる
安らぐ気持ちが生まれる

新しい自分がはじまる

だからぼくらは
音楽を聴く

2010年7月19日月曜日

映画「ソウルパワー」1

ひさしぶりにすごい映画を観てしまった。音楽の映画だ。
「ウッドストック」とか「ロッカーズ」とか、そういうレベル。
映画「ソウルパワー」。



この映画は、1974年、ボクシングのモハメド・アリとジョージ・フォアマンの対戦がアフリカのザイール (現コンゴ共和国) で行われたことと関係している。

世紀の一戦がアフリカで行われる。スポーツ界のみならず、黒人対白人という図式においても大変刺激的な世界的にエポック・メイキングなイベントだった。その模様は、当時をリアルタイムで覚えていない人でも、レンタルビデオで確認できる。

それが、映画「モハメド・アリ かけがえのない日々」。
この作品、実は公開は1996年である。コンサートから22年後。
なんで22年かかったかも、簡単に説明できる原因ではなさそうだ。
とにかく22年という時代の変革期間が必要だったとしかいいようがないのが事実だろう。
そしてこの映画は見事、1997年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を獲得している。絶対に観るべき名作だ。

それに比べると、世の中にあまり知られていない大きな事実が当時、もうひとつあったのだ。
ボクシングだけでなく、実は音楽の祭典も企画、実施されていたのだ。

それが「ザイール'74」と呼ばれる3日間にわらるコンサート。
ジェームス・ブラウン、B.B.キング、セリア・クルーズス、ビル・ウィザーズ、ザ・スピナーズ、ザ・クルセイダーズらとアフリカのミュージシャンたちがラインナップされ、競演するという音楽界においても歴史的なイベントだった。観衆は8万人だったという。

その様子を捉えたのが、映画「ソウルパワー」だ。
実にコンサートが行われてから35年経ってやっと編集、公開にこぎつけた。

「モハメド アリ かけがえのない日々」は人種差別を含むアメリカの社会的テーマを全世界に提示し、自由を世界に問いただした。

だが、「ソウルパワー」でのメインテーマは音楽だ。

アフリカン・アメリカン・ミュージシャンたちと、アフリカ、ザイールの人々のはじめての出会い、交流が描かれ、そこには喜びと戸惑いが交錯するといった混沌とした状況がドキュメンタリー・タッチで構成されている。

もちろん、ミュージシャンも闘っていた。ジェームス・ブラウンの劇中の言葉からは当時の彼らの人種差別における迫害や、長年の夢でもあったアフリカへの回帰の思いなど、同じく時代と闘う姿を映し出している。

当時、音楽の世界地図はどうだったのか?ソウルは、ファンクはR&Bは、アメリカン・ミュージックの立ち位置はどうだったのか?

「ソウルパワー」にはそれらのヒントがたくさん詰まっている。公開がもし終わったら、ぜひ、DVD化を願い、多くの音楽ファンが触れることのできる環境にしてほしいと願う1本だ。

そしてもう1本関係する映画がある。
これはさらに知られていない存在だ。
それが、映画「Fania All Stars Live In Africa」。

ファニア・オールスターズというのは、ニューヨークの音楽専門レーベル、ファニア所属のラテン・スターたちによるオール・キャスト、スーパー・サルサグループ。彼らが中心のライブ映像となっている作品。ちなみにファニア・オールスターズこそが、サザン・オールスターズの名前の由来らしい。

「モハメド・アリ かけがえのない日々」でも「ソウルパワー」でも満足できないラテンミュージックファン必見の映画だ。監督は、「モハメド アリ かけがえのない日々」同様、レオン・ギャスト。こちらは実は1974年、つまりすぐに当時公開されている。しかし、逆に、日本で手に入れるのが難しく、自分は何年か前に輸入盤で購入。ぜひとも手に入れたい。

この3本で、やっと、なんとか、1974年の「ザイール'74」の全体像が立体的に浮かび上がってくるのだった。
(つづく)
映画『ソウル・パワー』

2010年7月13日火曜日

雪は吸音材

雪は吸音材なんだって!

確かに雪が降ってたり、つもったりすると、シーンとした感じがする。
実は、感じじゃなく実際に雪がいろんな音を吸って無くして、いつもより音のない世界にしてるってことみたい。

実際,雪の吸音性はかなり高く,吸音材料であるグラスウールボードというものと同じくらい高いそうで,特に600Hz以上の高い音に対して80~90%の吸収率である、という情報もありました。

なんかそういえば、数年前にオーロラを見にカナダの山間部に行った時、当然そこはマイナス20度とか30度とかの世界で、あたり一面雪景色。

そのときに、窓を少し開けて夜空を見ていた時とか、翌朝、雪の中を散歩したこととか、ほかの観光地の思い出とは少し違う記憶で自分のなかにファイルされているような気がします。その違いがこれでわかりました。その思い出には無駄な音がない。なにか、画像でいうとフィルターの種類が違うような、質感でいうと一枚なにかが抜けているような、そんな思い出の違い。音でいうと、そうか、確かに音が吸われて無くなった状態だ!自分以外のまわりの時間だけがストップしたような不思議な感覚。

そうなった時に人間は聞こえる限りの小さな音に耳を傾けたり、さらに音が無ければ自分の内面に耳を傾けるそうです。

だから雪の世界はどこか神秘な気配を感じるのかもしれません。

だとしたら、雪の世界に旅行するのもいいですね。
たくさんインスパイアされそう。
寒いけど。

2010年7月10日土曜日

カバーソング

カバーソングは日本では大人気です。
徳永英明とかね。

カバーソングの楽しみかたって、もともと知ってる曲だから楽しいわけですよね。
「あーこの曲は知ってる。違う感じがして新鮮」とか「リズムが変わってもおもしろい」というように、明らかにオリジナルの知識が断片的に自分のなかにあって、音楽を鑑賞しています。その際にはオリジナル曲に対する感覚とそのほか自分の今までの音楽的体験からくるストックしてある音楽知識をフル活動させて、新しいカバー・バージョンに対して「聴いて」います。

でもなんでここまで日本人はカバーソングが好きなのでしょう?
日本人は、この「照らし合わせる作業」が好き、もしくは得意なんじゃないでしょうか?

新しい曲を聴く、という行為はある意味、自分のなかに新しいものを入れる作業で勇気が必要です。ちょうど初めての人と会ったときのように。

それに比べて、カバーソングの場合、
前の仕事先で知り合った人にばったり会ったら、向こうも会社変わってた、くらいの感覚で、「あー、どーもー」くらいはシャイな自分でも言えちゃう。そんな感じでしょうか。

つまり受け入れやすいのです。

自分自身にイエスという理由をつけやすい、そんな国民性でしょうか。
ちょっと古いですが、「NO と言えない」国民性でしょうか。
他の海外でももちろんカバーソングたくさんありますが、日本は特に好きな国民のような気がします。ぼくも好きです。

ただ本来のカバーソングは、音楽的にリスペクトしている、影響を受けたことへの敬意を表する意味を込めてカバーしますが、最近の日本のよくあるパターンは、カバーだと売れるから、という理由が少なくありません。

ところで、ふと思いついたのですが、
ヒット曲がでて、それをいろいろな人がカバーするのであれば、いっそのこと、最初から同時にいろいろな人がリリースするのはどうでしょう?

たとえば、Aという曲を、同じ日に、Superfly もコブクロも青山テルマも坂本冬美も同時リリースする。違うリズムで、違うアレンジで。ある人はロック風に、ある人は歌謡曲風に...シンガー、みんながオリジナルです。
これって、結局、もともとのその曲がどんだけ価値があるんだ?有名な人が書く曲で必ずヒットするだろうから、という前提が最初は必要かもしれません。例えば、曲はサザンの桑田さんが書く。みたいな。ビジネス的にも多方面に広がりがでておもしろそうだと思いませんか?同時20人リリースとか。(本家本元のサザンは最初は出さない、というのがポイントになりそうですが)

カバーって、「知ってる曲」という基盤のほかに、もちろん、いい曲だから広めたい、いい曲だからカバーしたい、いい曲だから好きだ、というもともとの「いい曲だから」という根源があるはずです。
ならば最初からいい曲をみんなで歌ったほうが、ひとりのアーティストのファンだけで共有するよりも、それぞれのアーティストのフォロアーにもアプローチできて、曲のためにはいいのではないか、と思ったりもします。twitter で情報が広まるようなシステムで。


誰かやってください。大物アーティストのかた。

2010年7月9日金曜日

耳をすませば

-音楽を聴く-という行為はとても創造的なこと。

茂木健一郎/江村哲二の ”音楽を「考える」”という本に書かれています。

音楽を作ることが創造的、クリエイティブな作業であることには誰も異論はないでしょう。
でも、作曲という作業でさえも、まずは自分の内なるものに耳をすませて、そこから沸きあがってくるものを外へ出す。自分の内なるものは、普段から聴いている音楽の蓄積によるものなので、この一見、相反する「聴く」と「作る」はつながった関係だそうです。

では単純に音楽を楽しむだけの音楽鑑賞はどうかというと。

これも、音楽を楽しむには、もともと自分のなかに蓄積された音楽と照らし合わせながら、「この曲は好きだ」「なんだか楽しい」「いい曲だ」と分析していくので、聴くという作業はただ耳を通しているだけでなく、この ”照らし合わせる” 作業であり、創造的なことだそうです。
そのストックが豊富であればあるほど、音楽鑑賞もさらに深く楽しむことができるわけです。結果、曲を作る人であれば、生まれてくるものも、より「広い領域」のなかからひとつのカタチが生まれてくるのでしょう。

作るものがたとえ、音楽でなくても、絵でも写真でも文章でも、インプットするものとアウトプットするものの関係は常につながっていそうです。

2010年7月4日日曜日

クリエイティブ、モーツァルト、ウォーキング、シャワー

クリエイティブな発想が欲しいとき。

サボっちゃうのがいいんですよ。
企画とか考えなきゃいけないとき、いろいろググってみたり、資料を読んだりするけれどなかなかアイデアが浮かばない、そんなことってよくありますよね。もしくは煮詰まる、みたいな。

歩くのがいいらしいですよ。
ほら、昔から映画とかでも「ウーン」って考えるときには、腕組んで部屋のなか歩いたり、右行ったり左行ったりして、そのうち「そーだ!」なんて思いつくシーンがありますが、あながちあれも嘘じゃないということです。

根拠は、歩いたりすると、下半身にある血が全身に行き届いて脳が活性化するそうです。
ウォーキングにしてもランニングにしてもいわゆる「ハイ」な状態になると、脳は活性化し、クリエイティブなアイデアが出やすい状態になってるようです。
それまで言葉で考えたり、読んだりして左脳ばかり使っていたのに、少し休ませて歩くことによって右脳が活性化するのでしょう。
ぼくは脳の専門家でもなんでもないので詳しいことはわかりませんが、結局、クリエイティブな発想の生まれる瞬間って、右脳と左脳がバランスよく両方働いている状態のときではないかとおもいます。

で、こんな話もあります。

フランスの音響心理学者の故アルフレッド・トマティス博士(1920~2001)によると、モーツァルトの曲が、胎児がお腹の中で聴いている胎内音と同じ8000ヘルツ以上の高周波を含んでいることを発見、その音楽は、心身をリラックスさせ、また脳の想像力や意欲をかき立てる領域に刺激を与え、あらゆる面で脳を活性化する働きが強いのだそうです。
さらにモーツアルトの音楽には「和音」が多く、鐘や風鈴と同じ音の成分によく見られる「音のゆらぎ」のようなものが多く含まれているそうです。

そういう意味では、

よく子供の頃、「何かをしながら〜」は、いけないこととして注意されましたが、なにかをしながら勉強する、なにかをしながら考える、というのも実は使い方によっては良いことなんじゃないか、と思えてきます。

実際、チルアウト系のエレクトロニックなど聴きながら仕事をしていると非常に気持ち良く仕事できたり、集中できたりすることありませんか?

あれって、左脳で仕事して右脳で音楽聴いて両方働いてて、脳がバランス取れててちょっといい気持ちでのびのびしてるんじゃないかと思います。疲れてなく元気な状態。
あくまで音楽が思考を邪魔しない性質のもの、というのが条件ですが。

そういえば、
ぼくはよくあるのが朝シャワーを浴びている時にアイデアが浮かんだりします。


これはどういうことでしょう?
もしかすると、寝てるときに夢とか見ていて夢を見てるときは右脳が活発だということなので、そのあと、起きてシャワーの音を静かに聴くことによって、日本人特有の自然音を左脳で聴くのと同じ様に、シャワー音を左脳で聴いているのかしれません。水の音として。その結果、右脳と左脳のスイッチが両方オンになって、そんなときにアイデアが浮かぶ……

そしてあのシャワーの音。
モーツァルト同様、「音のゆらぎ」が含まれているのではないでしょうか。

あくまで仮説です。
まあシンプルに言っちゃうと、気分転換っていうのは絶対大事。
だから、アイデアが必要ならサボった方がよさそうです。
少し遊んだほうがいいはずです。
そんなとき、メロディとか作詞とか企画のアイデアとか解決策とかひらめく瞬間があります。

2010年7月3日土曜日

音楽と脳

1978年に出版された書籍「日本人の脳」(角田忠信)によると、ー日本人と西洋人の感性の相違は左右の脳の機能の違いに基づき、その違いを解く鍵は母音が大きな役割を果たす日本語の特殊性にあるーという。

脳には右脳と左脳がある。
それはなんか聞いた事ある。

で、左脳と右脳で聴く対象のものが違うらしい。

たとえば、


* 左脳…言語的、論理的、分析的、代数的、右半身の神経、論理思考
* 右脳…イメージ的、直観的、総合的、幾何的、左半身の神経、絵画・音楽

でも日本人と日本人以外の場合、少し違いがあるそうです。


小鳥のさえずりから雨だれまで、風の唸り声から笑い声や叫び声まで、

「日本人はすべての自然の音を左脳部分で聞いている」。
「ほとんどの世界中の誰もが、自然音は右脳部分で処理している」。

だって!

日本人の特性の秘密はこのあたりに!?


さらに、基本、音楽は右脳なんだけど、ある状態においては左脳で聴くことがあるんだとか。
その状態とは、

FM音源(周波数変調音)が加わると、倍音関係の周波数構成の楽器でも言語脳優位になる!

また難しい言葉でてきた....FM音源(周波数変調音)

つまりシンセサイザーですよ。
シンセサイザーが入ってくると、「日本人の場合に限り」その音は左脳が優位になって、左脳で(も?)聴くと。

言語は脳処理のなかでもなによりも優先されるプライオリティが高く、それは左脳で処理される。
その左脳での処理が、FM音源(周波数変調音)が加わると音楽でも左脳で処理する、と。

まじっすか!

そのことと、ゲーム音楽の独自の発達、着信音のメロディの普及、YMOの世界での成功、みたいな日本の誇れるカルチャーとどう関係しているのだろうか?シンセサイザーが出現してからの音楽と、ことば、ラップ、ビートの関係、とかどうなんだろう?日本語と英語による違いと音楽の関係はどうなんだろう?

これがこのブログの最大のテーマです。



ぼくら日本人にとって、英語も大切だけど、日本語も大切で、ほら、ワールドカップとか見ると、日本の良さって日本独自の協調性とかチームワークこそが世界に誇れるわけで、あれはなかなか海外の国ではあのレベルの協調性までには到達できないのではないでしょうか。ぼくはそれは「日本人が持つ修羅場での協調性ハイ状態」だと思います。もしかすると、その日本人だけの特性は日本語から来てるんじゃないか?というところに興味が湧いてしましました。そこから見える日本人の音楽の特徴について、いろいろ空想してみたいと思ってます。